搾取を愛せる人たち

人というのは、愛そうと想うものは愛せて、そこにないとおもっている拘りや、人によっては偏執や、好意的になっていくと偏愛や、推しという、部分になる。

搾取をあいせる人には、色々いる。

この多様性、ダイバーシティ、そういうものを他にも列挙すると、そうラインナップという表現は的確かも知れない、ラインナップや、とりあわせや、群像劇みたいに多様なカラフルさ。それは脱線するには、オリバーサックスも持っていた。

1つは、ほんとうに愛しているひと。家柄や血統や自分の出自や親の収入を心から誇れるという、そういうひと。

2こめは、搾取には無自覚なひと。スクールカーストの上に居たり先進国から下請けを頼る、その際、実はフェアトレードに気をはらっていたか。こうなると、あてはまる人は(自然)多くなる。こういうのをヒエラルキーと言って、そこに居る限りナチュラルにそう、なっちゃう。

というのも、シリアスになりたいのは、ちょっと中断してこの、不思議なバリエーションを見てほしい。

こういう話題にシリアスになりたい気持は、理解しつつ。

3つめは、やはり弱者のおいつめられたねずみの状態。猫に対してかむともされる。肯定的にONE OK ROCKを考えてみても、例には面白いかもしれない。弱者のまきかえしみたいな曲は、すこしテイカーみたいな曲調を、持っている。石原慎太郎もちなみに書いているテーマ。

こんな風にまあ。もっとあっても、この3つは覚えとくと、いい。

差別心理よりちょっと、ライトに扱えるこの話題、是非興味を持ってみては。

僕は中学のころ凄惨ないじめにあった。あきらかなリンチだ。 そんなことをされるいわれはない。しかし、 おもいしらせたいのだ。おとなにどれだけかわいがられても、 おれたちがおまえをしなせてやる。なぜなら、ひいきだし、 そのくせ自力ではつよくないのに、あたまをさげないから。 この経験は僕を絶望させた。 自由意思で自殺しようとおもえばできるのだ。 こちらには生への執着がないから。あちらはある。 あるからこそリンチする。それを否定してはならない。 そうまでしていきたいのだ。後年冷静にこれをおもいめぐらした。 過去の自分にみはられてるような気がすると、にげられない。 もしおとうとがそうなれば、 僕が死んででもどうにかしなければならない。 なぜなら弟は清らかだからだ。 それにくらべておのれはすでにけがれきっている。 それはだれのせいでもない。 やられるとよわくなりよわいとやられる。そして、 自殺の危機がやってくる。 やはり魂とでもよぶしかないものでそこをこえるしかない。 だれのせいにしても身をほろぼすのだ。 自分のために記憶する必要があり、それは個人的な記憶だ。 苦労自慢はだめだ。それをすると、 かってに相手に編集されてしまう。つめがあまいのだ。 こころにしまうのだ。わすれてはならない。 やりかえしてもならない。際限がないからだ。

有料とかにしないでよ。

ただでいちおう発表できるというのは、技術のおかげかしら。

 

段々なんだかどうでもよくね。このあきらめ。だいじ。

 

イザヤ書は聖書のなかではひびいた。弧のとぎすまされた声が、全体から浮いてるから。

 

どうもよみたいらしい。しかたない。また書こう。

 

やや神経質だった反省はいまさらおそい。教訓にもしない。

 

時間って時計ではかるもんじゃないんだな。

 

色彩あざやか、コンクリートのまちにダイオキシンは、かおる。

 

死、それは題にしたらいけない、厳粛の名である。

 

みじかいけど、読者は気心のしれた、変人だから、ええじゃないか。

 

ばかはおどる。あげあしはとられるわ、さげすまれるわ、さんざんにおどらされても、おどってる。

 

まさかもうろくしたんじゃないか。こりゃあたまげた。そろそろ寿命だとおもったのだ。

 

happy the end!!!

つづく哉

対談

暇人でわるいか。いいえ悪くありません。あなたはかけちなしに、ぐうたらですから。そうか。ええでも、いつまでもつづきますか。無論、そんなことわかるまでもない。空虚なあいづち。閑話。二人みずをのむ。社会は、ありますか。あるが、たしかではないな。なにとくらべて、でなのでしょうか。それがあればな。そういわれるとたつ瀬がなかった。だとしたら、私の欺瞞もあばかれた。相手が、生活のタイムキーパーになった。そのとき異議のはさむほどの不思議をかんじさせない、説得をされていたのだ。倫理のりの字も知らないで確信犯ののりでそれをやっている。あきれてものもいえない。閑話。

言葉にするという狂気について書く。

プルーストを読んだら、わかる。

川端康成でもいいし、中上健次でもいいし、

武田泰淳や、上田秋成三島由紀夫謂わずもがなだが,夏目漱石森鴎外でもいいのは、知れてることなのですが、しかし、

一番分かりやすいのは、日本では童話を作ったような人が~たとえば宮沢賢治金子みすずのような~海外では、[ぼくが知る限りでは、]

プルーストなのであるが、またそれは、問題そのものではないのであるが、それは

なぜかと問えば、切りがない。

稲垣タルホを読めば、いいのかな。ガルシアマルケスか。

いや、これは母語の問題である。

物語の物語と風景と、世界の形而上学的な切り貼りによる詩の成立?

 

いや、だがしかし、それは違う内容の話なのだな。うーむ。

 

分からないな。数学に似ている話なのだ。

文学は、そして、抽象化の極限に、他の経済学や科学と云った学問にも先んじながら、

進むのであろうがな。時流ではあるが、

僕はそれにくみしないのだが、。