僕の好みなのだが、中原中也はきらいだ。好みというか(僕のは、好みですらない気分だ)、嫌悪なのだ。
勿論、自分自身を感じるから、嫌なのであって、客観性を持った時点で読み直そうと思ったりする。そうしたら、方法を学べるものだ。読まれるだけの理由があるという事だ。
だから、読むがそれが今じゃないということだ。感情的な詩には、人を動かす力がある。
そして、その力に励まされたり、惑わされたりということなのだ。
関係無いのだが関係ある話をしよう。
虚空遍歴という小説は、四十年掛けて書かれたそうだ。山本周五郎である。秘めたる野心を、方法を獲得して、そとに適切な表現をする時間が、相当に要るのだし、その間、壊されないようにまだもろい内面的な謎を、しっかりとうまく(言葉という外面形式を考えながら)運ばなければならない。表現したい事があるなら、どんなやり方でもいいというのとは違って、骨格をちゃんと与えることから始まる長編小説がある。冗長なのは考えていないからであって、例えばバブルの精神の両雄村上龍と村上春樹などを,(或いは三島由紀夫などの戦争で歪んだ心根の倒錯をくどくどと書き綴ったものがあるが、それも同じ事だ。)
しっかりスルーしなければならない。
無視はしない。見て、所詮他人のエゴというのもよくわからないな、と呟きながら、通りすぎるだけだ。役には立たない。僕は違う人間だから。
彼らは(僕には)憧れる程のものも持っていないが、威張ってるというのは恐らく自信の程なのだろう。実際、("一盲衆盲を引く"と云う言葉を不意に思い出す。どんな意味だっけな。)沢山の人が付いていっている。
その先には、何かがあるだろう。
ところで、一番刺激があるのは、痛みが網羅されたアスレチック,"地獄"という場所なのである。
行きたいなら、行けばよし。だけど、やめた方がいいと思う。楽しむ余裕がないなら(腹は据わってなさそうだ)
そういう事を考えたので、見返すように言葉にして、メモを残した。
誰の目に止まろうとその君とは実際生活での縁がないのだし会う事もないはずだ。
だが、僕は言葉を残す。