テーマとしてのメモ、メモとしてのテーマ

様々な音楽の詞と、詩と、小説を受け容れる器としての役割が、わたしにはある。言葉を記憶する者つまり記憶者小説家とは、常に空虚であり、表現の精度を上げていくにつれ、充実するのは、内面では無く、そとづらだ。独りの人間として、社会的人間と云うものを、外から捉えて、しかし社会から自由であることの為に、努力を払って、ある種のペルソナを社会的人間達に見せるたぬきか狐、それが作家と云う人々である。

純文学に限るが。

(つまり、暗いやつだ。)


なぜ、暗いのか。

明るみが嫌いだからだ。なぜ、明るみを嫌うのか。それは分からない。

別に後ろめたい事がある訳ではない。ほかに各々ワケがある。

そこに個性がある。作家はカテゴライズを拒否する集団だ。(そう云うカテゴリライズが出来る訳だ)


言葉を職人的に、造形するひととは、作家の事であるが、そのカテゴライズを拒否した集合の人々は、内容そのものにはならず、それを容れる何かの硬い形を持った,物である訳なのかも知れない。器であり続ける訳なのかも知れない。そう云うカルマであり、"人生"なのかも知れない。

だとしたら、作家としてあるには,受容の様々な苦しさなりを一手に或いは一心に、引き受けるための強さは必要だが、騙る攻めの強さは要らないことになる。守る強さがむしろ必要だと云える。

記録の重さは、ネット出現以降無視されて行く傾向のように思う。

誰も言葉による客観的な事実の,世界を求めていないつぶやきがあふれる弱い主観性のようなものに重点を移動した現今のことばの傾向は、できれば外から見たいものだ。

 

今は、特殊な時代。

これがどこへ行くのか、それも大事だが、

流れをみるより、さきに流れを掴まなくてはならない。波に乗らなくては。

 

だから、客観性は僕も無視するけど、文壇という権威にも、それなりの意味と役割があったことは、一度考えて言葉にしよう。