『自我は小さいこどもには、ない。
なくても、小さい頃は、疑問に思わなかった。』
雑な文章しか書けない。神経が疲れて。こう云う状態も、自分のために残しておくべきだと思ったから、適当に書いて遺す。自我のアメリカ的にむやみに強い人が嫌いな僕は、根深くアメリカ英語を嫌っている。
ともかく、嫌いなのだ。
直せと言わないで欲しい。卑しいじゃないか。イギリスは好きになった。イギリスには、文化がある。誇りがある。
英の詩的精神が、米にあるか,疑問である。米語は冗長な・機能だけの、言葉だ。
少し感じられて来た。
一行の精神性が好きなのだ。僕は説明しきったから、分かり合ったと、そういうあり方は、根本的に、、、"違っている"。あの言葉は論理は確かに整ってはいるが、気韻と云うか、、、それがない。
まあ、交渉だ。敵だ。仲間ではなく。自分以外の人間へ伝えるのではなく、損をしないような立ち回りの為に、自己主張を,激しく相手構わずするのだ。
いやしい虚勢だ。
俳句への興味。
これは、捉えがたい感情だ。
575の形式そのものが問題だ。
なんで、こうなのか分からないけど、これしか無い事は誰にも納得されるの不思議。
そう云う根拠のない容器が、なぜか無数のものをいれる。
俳句には、冗長な自我を、纏めあげて、
自分の考えてる事をハッキリさせる力がある。
言葉にすると、陳腐になるから、言葉にしない。
それももっともだが、内容が陳腐ならもともとしようが無い。
言葉にしてしまった方が、スピードが速まり、先に進めるのじゃないか。そう云う場合に限っての話だが(逆の場合があるのだ)。
逆。
神経質なこだわりがある時は、ことばにしてしまうと、ダメなのだ。忘れられなくなる。
無になって、行動するべし。
どうでもいい事でも、僕は書くぞ。
意味を繋ぎ止める事はかなわなくても、今感じた事を伝える為の言葉は探し続けたい。
そうして、完全な言葉は見つからないのだ。
だからいいのだ。
まだ、可能性がある。
可能性を余地と言っても良い。
疲れたら寝て、うるさい思考も感覚も情緒も気分も、忘れてしまおう。
作品なんて、作ろうとしない。
これは、信念だ。とりあえず、言語にする事としない事を自分で決められる人間になる事だ。小説を書きたいのではなく、詩を書きたいのではなく、文学者そのものになりたいのだ。自分で言葉を使う感覚が欲しい。
言葉の濫用にみんな慣れすぎている。誰とは、言わない。僕もだ。
時代的に、もう国語は壊れたのだしと考えてみても、どうも腑に落ちないのは、なぜだろう。一対一の関係を諦めてない限り、それは、辞められないものなのだ。
他人に押し付けるつもりはない。
『反感を買って、攻撃されて、、、』
できるだけ、口にしないようにしよう。
そうしよう。
腹に収めよう。
しかし、内心の声を一つ。
"それで佳いだろう、馬鹿め"。