狂気と正気は、死と生である

僕は島田雅彦武田泰淳の生死の、小説,彼岸先生と富士に心酔し、

そして、三島由紀夫の美しい星もいいと感じる、それはなぜかと言うに、

1思想が現実から、離れていない

2表現の位相において、非知識性と云うか、要は子どもでも読めるエンターテイメントがあって、気取らない。気取っても、本当に気取って取り澄ましてはいない,謎めいた演出をしないが、哲学の深みがある。つまり、父親の立場から、娘を導こうと云う使命遂行の意思がある。

(これはあとでもうちょい説明を加えるが、要は家庭的で、観念だけの議論ではなく、伝える為の意思と皮肉ギリギリのユーモアがある,そこに女性や子供を、対等な人間とみる感覚があって、観念的な人種や性への対話以前の、おべんちゃらがない。実際的だと云うことだ。つまり、ヒトはセックスをしないでは、子孫を残せない事実がある。愛だけでは、コウノトリは子供を運んで来ない。愛のない砂漠にもすくすくと育って、愛を持つ子供も居るだろう。授乳が愛だ。観念的な愛が、むしろ人間の魂を真綿で絞め殺す場合、必要なのは、食事によって、生きる実感を取り戻す事だ。肉体で生きていると云う逆らえない法則に、逆らわない事だ。究極的には、自足しか愛を産み出せないように出来ているのがこの世界だ。あの世には、きっと無償の愛もある事だろうが、死んでからでいいじゃないか。)

 

続く。