太宰治と徳田秋声から、折口信夫と三好達治へ

虚構がない私小説をやったと感じるのは、志賀直哉藤澤清造などだが、必ずしもそれは面白くない。

マトモに読んでないぼくは、それを語ることを出来ない。

だから、多少興味が惹かれるほうに話題を移そう。酔っぱらえば酔っぱらうほど、道化として、完成した振る舞いが外側に出る人。

ひとりごちる時も、相手と対する関係は、なくなっていない。言葉を意図を持って、発するのだしほんとうの有りの侭を誰かに理解してもらった時、彼は不安を覚えて、却って不幸だ。そして、嘘をつくのである。

と云っても、騙すための嘘とは違う。単に、

本心を秘匿したら、目的は果たされたのである。嘘を武器にして、傷付けるのではなく、専守防衛の盾なのだ。剣の鋭さはない。

 

言葉とは、そう云うものなのだ。

敢えて、言葉にすると云う場合、それは自覚的に魂の免疫を自分の基準で、作ることになる。

正直なのが一番だが、嘘をつき通す誠実さと云うものがないとは云えない。

僕はそう思う。

が、実際に会いたいと思うのは、正直な人だ。僕だって、そうだ。

文章の世界は、現実ではないのである。

(現実そのものでは、あり得ないから、嘘をつかれることも、客観的にされた言葉だけの、世界では許せるのである。それが文学である)

虚構の本当の問題は、嘘が本質を炙り出すものを持っていて、ただ単に思わせ振りなものでない事だ。

本当に生活を必死に生きてる人の場合、私小説と云うものは、手の込んだ虚構で、複雑になる。なぜなら、会ったことのない人と、分かり合うことは、できないと云うことがあるからだ。

 

だが詩と云うものは違う。折口信夫三好達治などは、一人称の心の叫びを即時に、言葉に移した。これは、彼らの才能だ。

 

瞬間的なものがある。それは、生き方,処し方自体が彼らの場合、常に未来に向いてるから、生活を問題にしないのだ。

瞬間の通じ合い、これは音楽ととても似ている文章なのだ。

私小説には、ない。

うまく書けてるかが、詩の場合、問題にならない。リズムがあれば、それでよい。文法として、破綻していても、表現として破綻していない場合がある。

私小説には、自分に客観性を持つと云う根本の動機があって、文法は無視できない。文法を無視すると云う事はこの場合、客観性を無視している事になる。

つまり、嘘のないシンプルな表現では(詩と違って)、ないのだ。

権威を、現実生活で持ちたいと云う野望は、私小説的な文学にひとを傾かせる。

書く人も読む人も、言葉の発せられた状況,文脈をテキストで追って行く。

そして、人間をある視点から観察するのが、小説物語的な文学だ。

それと違って、詩はそれらを全て捨象するのだ。

自分も人間なのである。人間の観察者の立場は、棄ててしまってもいいじゃないか。

そこに詩の爽やかさと云うものがある。

(本当の詩には、あいまいな自我は、ない。私小説というのは重い割に、考えは浅かったりすることが作者にあるが、

詩はもっと、軽くて深いのだ。まるで音楽のように。一度切りの人生で、その瞬間にしか、聞こえないのだ。最初の感動が本質だ。)