狂気と正気は、死と生である

僕は島田雅彦武田泰淳の生死の、小説,彼岸先生と富士に心酔し、

そして、三島由紀夫の美しい星もいいと感じる、それはなぜかと言うに、

1思想が現実から、離れていない

2表現の位相において、非知識性と云うか、要は子どもでも読めるエンターテイメントがあって、気取らない。気取っても、本当に気取って取り澄ましてはいない,謎めいた演出をしないが、哲学の深みがある。つまり、父親の立場から、娘を導こうと云う使命遂行の意思がある。

(これはあとでもうちょい説明を加えるが、要は家庭的で、観念だけの議論ではなく、伝える為の意思と皮肉ギリギリのユーモアがある,そこに女性や子供を、対等な人間とみる感覚があって、観念的な人種や性への対話以前の、おべんちゃらがない。実際的だと云うことだ。つまり、ヒトはセックスをしないでは、子孫を残せない事実がある。愛だけでは、コウノトリは子供を運んで来ない。愛のない砂漠にもすくすくと育って、愛を持つ子供も居るだろう。授乳が愛だ。観念的な愛が、むしろ人間の魂を真綿で絞め殺す場合、必要なのは、食事によって、生きる実感を取り戻す事だ。肉体で生きていると云う逆らえない法則に、逆らわない事だ。究極的には、自足しか愛を産み出せないように出来ているのがこの世界だ。あの世には、きっと無償の愛もある事だろうが、死んでからでいいじゃないか。)

 

続く。

 

 

 

太宰治と徳田秋声から、折口信夫と三好達治へ

虚構がない私小説をやったと感じるのは、志賀直哉藤澤清造などだが、必ずしもそれは面白くない。

マトモに読んでないぼくは、それを語ることを出来ない。

だから、多少興味が惹かれるほうに話題を移そう。酔っぱらえば酔っぱらうほど、道化として、完成した振る舞いが外側に出る人。

ひとりごちる時も、相手と対する関係は、なくなっていない。言葉を意図を持って、発するのだしほんとうの有りの侭を誰かに理解してもらった時、彼は不安を覚えて、却って不幸だ。そして、嘘をつくのである。

と云っても、騙すための嘘とは違う。単に、

本心を秘匿したら、目的は果たされたのである。嘘を武器にして、傷付けるのではなく、専守防衛の盾なのだ。剣の鋭さはない。

 

言葉とは、そう云うものなのだ。

敢えて、言葉にすると云う場合、それは自覚的に魂の免疫を自分の基準で、作ることになる。

正直なのが一番だが、嘘をつき通す誠実さと云うものがないとは云えない。

僕はそう思う。

が、実際に会いたいと思うのは、正直な人だ。僕だって、そうだ。

文章の世界は、現実ではないのである。

(現実そのものでは、あり得ないから、嘘をつかれることも、客観的にされた言葉だけの、世界では許せるのである。それが文学である)

虚構の本当の問題は、嘘が本質を炙り出すものを持っていて、ただ単に思わせ振りなものでない事だ。

本当に生活を必死に生きてる人の場合、私小説と云うものは、手の込んだ虚構で、複雑になる。なぜなら、会ったことのない人と、分かり合うことは、できないと云うことがあるからだ。

 

だが詩と云うものは違う。折口信夫三好達治などは、一人称の心の叫びを即時に、言葉に移した。これは、彼らの才能だ。

 

瞬間的なものがある。それは、生き方,処し方自体が彼らの場合、常に未来に向いてるから、生活を問題にしないのだ。

瞬間の通じ合い、これは音楽ととても似ている文章なのだ。

私小説には、ない。

うまく書けてるかが、詩の場合、問題にならない。リズムがあれば、それでよい。文法として、破綻していても、表現として破綻していない場合がある。

私小説には、自分に客観性を持つと云う根本の動機があって、文法は無視できない。文法を無視すると云う事はこの場合、客観性を無視している事になる。

つまり、嘘のないシンプルな表現では(詩と違って)、ないのだ。

権威を、現実生活で持ちたいと云う野望は、私小説的な文学にひとを傾かせる。

書く人も読む人も、言葉の発せられた状況,文脈をテキストで追って行く。

そして、人間をある視点から観察するのが、小説物語的な文学だ。

それと違って、詩はそれらを全て捨象するのだ。

自分も人間なのである。人間の観察者の立場は、棄ててしまってもいいじゃないか。

そこに詩の爽やかさと云うものがある。

(本当の詩には、あいまいな自我は、ない。私小説というのは重い割に、考えは浅かったりすることが作者にあるが、

詩はもっと、軽くて深いのだ。まるで音楽のように。一度切りの人生で、その瞬間にしか、聞こえないのだ。最初の感動が本質だ。)

 

推敲するけど、失敗するばっかり

水のむ女、髪を束ねる仕種、一瞬出来てたポニーテール、かなしい気持ちで眺めているのはなんだ、きっと修飾することへの絶望というものだ。感情かそれとも目の前の絶望的な光景なのか。

"現実に逆らってはならない。そういつも言い聞かす"。(けれど、遣る瀬ない感覚はあるし、なくなりはしない。)

 

顔を上げる。と、幻覚を見てたらしい。

それは、反則だ。だから、自重をつとめるけれど、むずかしいのは、むずかしい人だからだ。焦って、戸惑って、故障して直せないものを見ている。

彼はむずかって、大人なのに

子供じみた拒否の攻撃を時々外界へする。変わらないものを否定するべきでは決してない。

それがこの世の倫理なのに無理なのだ。

生理的な吐き気の発作なのだ。

 

うるさいのだ。外の煩わしさが心にまで入ってくる感じ。

"力で外へ排斥せねば、殺られる"。

そう思ったその瞬間、

時は遡って、あの少年時代の、記憶の中に、また新たな不快なものを掘り出す。

子どものくせに

"感情の整理ができない。できなくなってしまった。ショートでふいに頭の回線は、もうなおせない形にねじれて、僕はパニックになる。

勿論、こう云う時ポーカーフェイスを崩してはならない。更なる危険を呼び込むからだ。

自分で解決を探す必要がある。"

とかなんとか言ったりなんて、既に小学生にして余裕のふりである。マセた、小憎らしい餓鬼だ。

 

なぜだか分からないけど僕も水呑場へ駈けた。躓いた。顔を上げると、幻覚を見てたらしい、あのひとが居ないのだ。

あのひとは、何をしていたんだっけ、な。

水呑場でほんとうは何をしていたのか。

見た途端、消えてしまった。そう、正に夢か童話のように。

まるで、あれは鶴の秘密の機織りの作業のようであった。

そう、これは夢より夢のような現実なので、

しまつに終えないのだ。

僕は探す。

鶴のつもりで彼女は逃げたのか、羽がないじゃ無いか。

僕は、そんな考えにおちた。

自分でも、わからないくらい複雑でしかも役に立たない暗喩だ。

なんのほのめかしなのだ。惑わせようとしやがる。ここで一人称を変えた。

"俺は知らない。複雑なことは他にもあるけど、いつだって俺はやり過ごしてきたんだ。"

二つ目の人格を僕は使う。

自分を説得する事は、普通出来ない事である。

だが、やらなければならない。そう思ったとき、僕は自分というものを捨てて、俺に彼を説得するように言う。

 

さっきまで居た筈だが。"幻覚を楽しむ余裕は無い。"

そう思い、女を探すが、自分が誰かおんなはどこかもうわけがわからないな。苦しいな。

暑さに気付く。熱中症になりかけの自分が居た。水を呑もうとする。もう大分脱水症状だった。

実際、僕はそのあとに熱中症で倒れた。

うまく、水は喉を通らず、渇きはもはや段階がエスカレーションして、感覚の麻痺そのものになっていて、欲求が起こらず、死を受け容れるかんじで、よろめいたままブレーキを

使わず、後頭部を打っていた。

痛みは感じなかったが、ひどい怪我なのだった。

 

病室。まだ、夢の中に居る。意識はないけど、身体の醒めた感覚が残っているし、夢の中に居ることは、気付いてどうにかしようと、模索し、失敗している。

現実でも失敗ばかりの自分が、夢の中で苛立たしくリアルになまなましく迫ってくるので、思考回路は捨てて、せめて夢の中では自由にやろう、と感じる。

そして、目が覚める。現実から逃げることはできなかった。頭の悪い体の小さい自分が、

横たわってるここ、それは棺桶ではない、生きている人間が寝る場所、だ。

 

だから質(タチ)が悪くて、中途半端な苦わらいで、上や横から自分を苛めるしか無い。

冷房の利いたこの部屋。

暑くはない筈だし、汗は掻いていないのだから、おかしいのだが"窒息的な蒸し暑さ"だ。

精神がオーバーヒートしているのだとしたら、これは、夏の太陽のせいなんかじゃないんだろう。

熱そのものによって、精神の息が止められることはない。

暑かろうが、僕の肉体の呼吸は平常運転なのだが、何かが息苦しい。

たまに体は機械だと感じるのは魂が息の根を抑えられてても、からだが動いているこういう瞬間だ。

 

"そういうのが続くのが、人生なのだとして、僕はそれを続けられないだろう。だから、生まれてきたことの恩寵も忘れはて、陰気な観念の地下牢で自殺について考える。"

 

なんつって。

まるで、昔のぼくのようなこの人は誰なのだ。

答えは簡単だ。文学青年というものが居て、それなのであろう。

"少年"のように、抽象的な言葉だけど、"文学青年"も"少年"同様、認識せんとする人によって居たりいなかったりするイデアのような、ものなのだ。あるのだ。そして、絶対に見えないのである。

 

"それは記憶できないが、そのものを生きることは出来るものなんだ。"

酔生夢死。

自分が相手になってる。もう相手が自分になっている頃だ。

だから、もう生きることの連帯責任が生じている。

孤立した人間では居られない。

 

ぼくは人の渦の中心にいる。

人が多くて、視界は充分には見えていない。

音の鳴り方が方向を決める。

先は見えないけど、方向が正しければ、目的に向かっているということなのだ。

 

 

赤ちゃんのつぶらな瞳

タイトルは最後に付けることにした。

 

今日は、一つ発見があった。

ショーロホフと清少納言サカナクションと米津玄師を漠然と心に聞いたカオスな、体験の一日だった。

"静かなるドンは、面白い小説だ。"

 

赤ちゃんが内側に居る。まだ、少しも成長せずに。そう云う人。

 

ぼくは、クレヨンしんちゃんには、真実が描かれていると思う。

ひまわりと云う妹は、すぐに格好いい男性に夢中になる一歳くらいの赤ちゃんだ。

女なのである。

アカチャンなのに、既に目覚めているのである。

逆に、しんちゃんのほうは、ゼロ歳の頃から、女性にメロメロになる。

男の子なのだ。

 

内面がそうなのだ。

それが、毀損しないで、大人になると、

八十歳の精神的な赤ちゃんも有り得る訳だ。

ジェンダーは、そう云う人にとって、自由ではない。彼らは、身体的特徴に逆らわないからだ。身体と精神がわかちがたく一つになっている0歳のまま、両方が大きくなって行くのだから

俳句

『自我は小さいこどもには、ない。

なくても、小さい頃は、疑問に思わなかった。』

 雑な文章しか書けない。神経が疲れて。こう云う状態も、自分のために残しておくべきだと思ったから、適当に書いて遺す。自我のアメリカ的にむやみに強い人が嫌いな僕は、根深くアメリカ英語を嫌っている。

ともかく、嫌いなのだ。

直せと言わないで欲しい。卑しいじゃないか。イギリスは好きになった。イギリスには、文化がある。誇りがある。

英の詩的精神が、米にあるか,疑問である。米語は冗長な・機能だけの、言葉だ。


少し感じられて来た。

一行の精神性が好きなのだ。僕は説明しきったから、分かり合ったと、そういうあり方は、根本的に、、、"違っている"。あの言葉は論理は確かに整ってはいるが、気韻と云うか、、、それがない。


まあ、交渉だ。敵だ。仲間ではなく。自分以外の人間へ伝えるのではなく、損をしないような立ち回りの為に、自己主張を,激しく相手構わずするのだ。

いやしい虚勢だ。

 

俳句への興味。

これは、捉えがたい感情だ。

575の形式そのものが問題だ。

なんで、こうなのか分からないけど、これしか無い事は誰にも納得されるの不思議。

そう云う根拠のない容器が、なぜか無数のものをいれる。

俳句には、冗長な自我を、纏めあげて、

自分の考えてる事をハッキリさせる力がある。

言葉にすると、陳腐になるから、言葉にしない。

それももっともだが、内容が陳腐ならもともとしようが無い。

言葉にしてしまった方が、スピードが速まり、先に進めるのじゃないか。そう云う場合に限っての話だが(逆の場合があるのだ)。

 

逆。

神経質なこだわりがある時は、ことばにしてしまうと、ダメなのだ。忘れられなくなる。

無になって、行動するべし。

 

どうでもいい事でも、僕は書くぞ。

意味を繋ぎ止める事はかなわなくても、今感じた事を伝える為の言葉は探し続けたい。

そうして、完全な言葉は見つからないのだ。

だからいいのだ。

まだ、可能性がある。

 

可能性を余地と言っても良い。

疲れたら寝て、うるさい思考も感覚も情緒も気分も、忘れてしまおう。

 

作品なんて、作ろうとしない。

これは、信念だ。とりあえず、言語にする事としない事を自分で決められる人間になる事だ。小説を書きたいのではなく、詩を書きたいのではなく、文学者そのものになりたいのだ。自分で言葉を使う感覚が欲しい。

 

言葉の濫用にみんな慣れすぎている。誰とは、言わない。僕もだ。

時代的に、もう国語は壊れたのだしと考えてみても、どうも腑に落ちないのは、なぜだろう。一対一の関係を諦めてない限り、それは、辞められないものなのだ。

 

他人に押し付けるつもりはない。

『反感を買って、攻撃されて、、、』

できるだけ、口にしないようにしよう。

そうしよう。

腹に収めよう。

しかし、内心の声を一つ。

"それで佳いだろう、馬鹿め"。